朽ちるもの。

朽ちていくものの中に、美はあるのだろうか。
日本には、年齢を重ねることに対して、どこか引け目を感じさせるような空気がある。
実際にこの年齢になってみると、身体はたしかに衰える。
関節は固くなり、足も遅くなる。疲れやすくなり、できないことも少しずつ増えていく。
鏡の中の自分を見ても、若いころの面影はしだいに薄くなっている。
では、老いていく人間にとっての「美」とは、何だろう。
文学や映像の世界では、主人公の多くは若く、外見も整っている。
現代の美は、「若さ」や「見た目」と強く結びついているように思う。
だとすれば、ぼくは別の方向に美を探してみたい、とぼんやり考える。
それは、「朽ちていくもの」の中に美を見いだすことである。
ただし、朽ちること自体が美しいのではないのかも知れない。
衰えることや、弱っていくことを美化したいわけでもない。
ぼくが美しいと感じるのは、朽ちていきながらも、なお生きようとする姿だと思う。
死の準備をきちんと整え、静かに死の床へ向かっていく。そこにも、人としての立派さはあるのだろう。
けれど、ぼくが惹かれるのは、もっと不格好な生き方だ。
明日のことなどわからなくても、とにかく今日を生きる。
身体のあちこちが痛くても、食べて、眠って、また目を覚ます。
何かを楽しみ、誰かを心配し、ときには腹を立てながら、生きて、生きて、生き抜こうとする。
そして、生の途中で、ある日がっくりと消えていく。
人生をきれいにまとめることもなく、何かをやり残したまま、未完の姿で消えていく。
その未完であることまで含めて、ぼくは美しいと思う。

たとえば、年老いた母の手。
節が太くなり、皺が刻まれ、若いころの滑らかさはもうない。
けれど、その手には、長い年月の中で触れてきたものが残っている。
働いたこと。
食事を作ったこと。
子どもの身体に触れたこと。
悲しい日に涙を拭ったこと。
その一つひとつが、皺の間に刻まれているように見える。

あるいは、足元で踏まれる落ち葉。
色を失い、乾き、粉々になり、やがて土へ還っていく。
それでも落ち葉は、最後の瞬間まで、光の中で独特の色を放っている。
そこにあるのは、単なる衰えではない。
生きてきた時間、そのものである。
朽ちていくものの中に、美はあるのか。
ぼくは、あると思う。
朽ちること自体が、美しいのではない。
朽ちていきながらも、なお生きようとする。
きれいに終わることなど考えず、不格好なまま、生の側に踏みとどまろうとする。
その姿に、ぼくは美を感じる。
ぼくは、朽ちていく自分自身の姿を
もっと肯定したい。