そら

5.7.5.7.7

朽ちるもの。

そら




朽ちていくものの中に、美はあるのだろうか。


日本には、年齢を重ねることに対して、どこか引け目を感じさせるような空気がある。


実際にこの年齢になってみると、身体はたしかに衰える。

関節は固くなり、足も遅くなる。疲れやすくなり、できないことも少しずつ増えていく。


鏡の中の自分を見ても、若いころの面影はしだいに薄くなっている。


では、老いていく人間にとっての「美」とは、何だろう。


文学や映像の世界では、主人公の多くは若く、外見も整っている。


現代の美は、「若さ」や「見た目」と強く結びついているように思う。


だとすれば、ぼくは別の方向に美を探してみたい、とぼんやり考える。


それは、「朽ちていくもの」の中に美を見いだすことである。


ただし、朽ちること自体が美しいのではないのかも知れない。

衰えることや、弱っていくことを美化したいわけでもない。


ぼくが美しいと感じるのは、朽ちていきながらも、なお生きようとする姿だと思う。


死の準備をきちんと整え、静かに死の床へ向かっていく。そこにも、人としての立派さはあるのだろう。


けれど、ぼくが惹かれるのは、もっと不格好な生き方だ。


明日のことなどわからなくても、とにかく今日を生きる。

身体のあちこちが痛くても、食べて、眠って、また目を覚ます。


何かを楽しみ、誰かを心配し、ときには腹を立てながら、生きて、生きて、生き抜こうとする。


そして、生の途中で、ある日がっくりと消えていく。

人生をきれいにまとめることもなく、何かをやり残したまま、未完の姿で消えていく。


その未完であることまで含めて、ぼくは美しいと思う。






たとえば、年老いた母の手。


節が太くなり、皺が刻まれ、若いころの滑らかさはもうない。


けれど、その手には、長い年月の中で触れてきたものが残っている。


働いたこと。


食事を作ったこと。


子どもの身体に触れたこと。


悲しい日に涙を拭ったこと。


その一つひとつが、皺の間に刻まれているように見える。






あるいは、足元で踏まれる落ち葉。


色を失い、乾き、粉々になり、やがて土へ還っていく。


それでも落ち葉は、最後の瞬間まで、光の中で独特の色を放っている。


そこにあるのは、単なる衰えではない。


生きてきた時間、そのものである。


朽ちていくものの中に、美はあるのか。


ぼくは、あると思う。


朽ちること自体が、美しいのではない。


朽ちていきながらも、なお生きようとする。


きれいに終わることなど考えず、不格好なまま、生の側に踏みとどまろうとする。


その姿に、ぼくは美を感じる。

ぼくは、朽ちていく自分自身の姿を

もっと肯定したい。